いのち
毎日の如く人の手によって大切な命が絶たれるニュースに、手をかける人の気持が理解出来ない。自分の身に引き替えて考える事も出来ない、只、腹立ち紛れなのか、手を下した後、断末魔の苦しむ姿に苛まれないのであろうか、捜査の手を逃れても良心の呵責に責められても平気なのか、不思議に思う。
生まれた時は、恐ろしい犯罪を犯す人間に育つとは誰が想像できよう。純真無垢な美しい瞳を持つ幼子が何時、どの様にして折曲がり、人の命を蔑ろにする魂の持ち主になってしまうのであろう。
旧約の時代から戒めを破ったり、妬みにより命を奪ったり、親の溺愛で偽ったり人間の醜さは綿々と今日まで途絶える事無く続いているが、近頃は罪の恐ろしさなど念頭になく自分の心を制する事も、省みる事も出来ない心の赴く侭に行動し、反省の欠片も持ち合わせていないのであろうか。
生まれる時は家族だけで喜び合うのに、長じるに及んで祝い事が増し加わり、最後を迎えては葬儀と言う儀式は華やかになり、儀礼的に虚栄心も加わり盛大を誇る向きも覗える。然し、最近ではしめやかに内内で済ませる人も多くなってきて結構な事と思う。
人一人が世を去った後の諸手続きの大変なことに驚く。本籍が住所と異なる場合は、出身地まで遡ったり、その他、社保、金融関係、名義変更と何ヶ月も駆けずり回らねばならない。一人暮らしや、何も無いと言えども居住地での手続きには手間を要する。最近では、一人暮らしの方の亡き後、片付け屋と言う専門職も居るとの事。
僅かでも財があれば身内の争いの基になりかねないので、生前、面倒でも法的遺言を残しておくのが、残された者への煩わしさを残さない贈り物かも知れない。人の一生の終わりは、何れにせよ大変な事である。


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